感動の方程式

人はなぜ映画に感動するのか。まずそこから考えなければいけないことに気がついた。りっきーはいつも無茶を言う。


人は映画を見て感動する。これは作品の質やさらには世情や様々な環境、コンディションも影響するが、とりあえずそう考える。では次に感動とはどのようなものか。goo辞書など調べてみると、「美しいものやすばらしいことに接して強い印象を受け、心を奪われること。」とある。まあこれでよしとする。「ヤツは大変なものを盗んでいきました」ってことだと解釈。


ここでの"美しいものやすばらしいこと"とは、映画から得られるものである。しかしそれはあくまで映画の中で起こっていることで、現実のものではない。実際に触って、何かすると反応がある現実の方がより感動があるはずなのに、人は映画を見に行く。そのあたりに問題がある気がする。


映画は劇場で見るものである。劇場は昔は舞台であった。その上で役者が演舞をし、観客席から観客が鑑賞する。そこにハレとケという概念がある。らしい。昔きいた話なので記憶がおぼろげだが、大まかにハレは舞台上の世界、ケは現実の世界と考えられ、特殊な空間ができあがるといったものだったと思う。映画もその流れをくんでいるはず。


ここで話が飛ぶ。映画を見る人たちの、見ているときの精神状態である。映画を見ているとき、人はどんな顔をしているか。映画館で隣の人の顔をのぞき見るのは失礼である。でもたぶん口を閉じてじっと見ているか、開けて見入っているかのどちらかだろう。どちらでもないならたぶん目の方が閉じている。しかしどのような表情をしていても、おそらくこれは間違いないと思えることがある。それは誰も映画からのアクションを待っていたりはしない、ということだ。映画が話しかけてくるのを待っていたり、それに対して受け答えをする準備をしていたりはしない。当たり前だが重要なことである。映画を見ている人は、決して二人称にはなりえないのだ。


口を開けて見入っている人は、おそらく映画の中に入り込んでいるのだろう。主人公なのか、その仲間なのか敵なのか脇役なのかしらないが、自身の経験に照らし合わせ、映し込み、それをもう一度自分の目を通して見ている。コンテンツの当事者として映画に重なっているのだ。一人称の観客。


それに対し口を閉じている人は、第三者として映画を評価している。安心し、自分の価値観で、傍観者として。子供でさえ映画を評価する。つまらなければ集中力が落ちていくだけである。三人称の観客。


映画を見ている人は、このどちらかの状態で感動している。そう考えると、二人称になりえないのだ。ここでハレとケで考えると、精神がハレに参加するかケに参加するか、となる。どちらに主眼を置くかで状態は変わっている。ただ日本人は「踊る阿呆に見る阿呆」などと言うくらい舞台に上がるのが好きなので、映画館には口を開けている子供が多いだろうと予想できる。


一人称、三人称で映画を見ると人は感動する。では二人称になったときどうなるのか。明日のレポートではそのへんをまとめたい。